坐禅会に通いはじめて1年間が経った振り返り
1年前に町田宗保院の坐禅会に通い始めてちょうど丸1年が経過した. しかも、1年間全部参加した、皆勤してしまった. 皆勤を目指して頑張りすぎたのでこれからはちょいちょい手を抜こうと思う.
涅槃図が飾られる季節だ. 去年はじめて参加したときも、今日も再びみた. よい機会なので、この1年の坐禅会参加の感想を書いてみよう.
町田エリアには町田宗保院と成瀬東雲寺の2つを組み合わせると毎週坐禅会に参加できる
町田宗保院の坐禅会は毎週第2, 4土曜日. はじめは隔週から通い始めたのだが、だんだん物足りなくなってきて、成瀬東雲寺坐禅会にも参加するようになった. 東雲寺坐禅会は第1, 第3日曜日.
すぐに気づいた. これは隔週で隣駅同士のお寺が坐禅会を開いており、それらを組み合わせると町田エリアでは、曹洞宗坐禅会は毎週通うことが可能. また、東雲寺は第4日曜日は子供坐禅会という名の大人だけ坐禅会もある. 月末土日連続して参加するかは気分次第.
なお、相模大野の相模女子大では大乗仏教ではなく初期仏教瞑想会も定期的にあり、こっちもたまに参加している1. わたしの自宅は小田急相模原だが、うちの近所から通える坐禅会はこの3つ.
曹洞宗寺院はほかにもあるようだが、定期的に坐禅会は開いてないようだ. そして、坐禅会を探すときは曹洞禅ナビ2で調べるのだが、全部のお寺が坐禅会を開いているわけではない. 曹洞宗はどちらかというと人里離れたところにお寺があるのと、坐禅会を定期的に運営するのはそれなりの苦労が必要なので、それでも定期的に場を提供してくれる両寺には本当に感謝している.
定期的に近所の坐禅会に参加できるというのはとてもよい機会だ. これが仮に電車にのってお寺に通うとなると続くかはわからない. またうちの実家の東京都練馬区とかは日蓮宗は多いものの曹洞宗寺院がうちの近所にない(わたしの家は日蓮宗). 今現在、町田に住んでいるのはたまたまで永住の地ではないので、通えるときに通っておきたい. いつまでも坐禅会に参加できるわけではない.
坐禅会に参加するのは独りでは怠けるから
よく思ったことが、なぜ坐禅会に参加するのか?なぜならば、坐禅は自宅で一人でできる. わたしの理由は、独りだと怠けてしまうからだ.
最近の心がけとして、毎日30分以上、理想的には朝と夜に30分ずつ1時間坐りたい. 生産性を追求するデキるビジネスマンは5分目をつぶってマインドフルネスらしいが、それは休憩だろと誰か突っ込んでほしい. 最近の課題は坐禅を休憩にしないこと。したがって1日の中でまとまった時間を確保することが必要. 大抵は朝起きたときか寝る前.
しかし、けっこう怠ける. 独りではなかなか坐禅の習慣が続かない. そこで、定期的に坐禅会に参加することで、一週間の残りの6日間も坐禅を継続しようというモチベになる. 同じ理由で、回向文や般若心行をみんなで声を合わせて行うのも、みんなでやると家で独りでするときの助けになるから.
わたしが努力しないと朝早く起きて坐禅会に参加できない問題
朝起きることが、かなりの努力を要する. 町田宗保院はまだよい、問題は成瀬東雲寺坐禅会. 家から8キロくらい?あるので、遅刻しかけると朝から自転車を死に物狂いでこいでお寺に到着する. 努力を手放すはずなのに、努力しないと坐禅会にたどり着けない問題. これ、みんな感じているのではないか?
これについて最近思うことは、もうすでに前日の夜あたりから坐禅会ははじまっていて、お寺の座布団に身を委ねるように、前日の夜から就寝準備に身をゆだね、自宅のふとんに身をゆだね、起きるべくして自宅を出発し、寝ぼけながらも?自転車をこぐのではなくこいでいる自分に身を任せ、お寺にたどり着き足を組む.
ほら、ここに自分が努力するということは存在しない. 朝が寒いとか、毎日朝一冷水シャワーに突っ込んでいると、もはやそのルールにしたがうことが何とも思わない…屁理屈かもしれないが、今の解釈がこれ.
しかし、この考え方は注意が必要. 坐禅に身を委ねる感覚でお寺までいくとき、これは単なる自己催眠にかかっているに過ぎない. 五感の感覚を無視して、変性意識、妄想の世界に逃避して部屋のふとんからお寺のざぶとんにワープする. 現在の感覚を観察して妄想を乗り越えることを目指しつつ、その真逆の力に頼る愚かさがある.
そういう観念操作をせずに、単純に習慣の力に頼って何も考えずに坐禅会に到着すればいいんだけど、現実はけっこう頑張って早起きして自転車をこがないといけない. この矛盾は私の中の未解決問題だ.
結跏趺坐ができるようになるまで半年かかった
坐禅会に参加する前まで、独学のなんちゃって瞑想は3年くらい継続していた. ただ、坐禅会に参加した去年の決意では、独学のつぎはぎだらけのやり方ではなく、いったん曹洞宗の坐禅の形式に乗っかってみたいという意欲があり、まずは結跏趺坐に取り組んだ.
しかし、今までずっと半跏趺坐だったので、結跏趺坐で難なくすわれるまで半年かかった. わたしは元々身体が固いほうだが、そんな人間でも半年かかればなんとかなる. そしていったん結跏趺坐ができるようになると、もう半跏趺坐でなくてもいいかなと思う. 股関節が柔らかくなれば、特に痛すぎて辛いとかはない.
ストレッチの科学をYoutubeでみて、そもそもひとつの部位で5分間くらいやらないとほぼ無意味で柔軟性は上がらないという、若干ショッキングな事実を知った3. ただ一方で、坐禅の前に股関節を広げるストレッチのみに焦点を絞って5分くらいを毎日継続すると、柔軟性が変化した4.
結跏趺坐のよいところは、坐禅が終わった後に足がしびれないこと. 半跏趺坐だとしばしばしびれて、とくに経行でしびれすぎてあるけなくなることがあった. この問題は今は完全に克服した.
半跏趺坐よりも結跏趺坐のほうがより安定するというのは、そんな気もするが、気のせいかもしれない. わたしはまだ1時間程度しか坐禅をしないので、その程度だとどっちでもいいのかもしれない.
般若心経、回向文、略三宝をとりあえず丸暗記
般若心経と回向文略三宝はとりあえず丸暗記.
宗保院坐禅会は第二土曜に般若心経、回向文、略三宝、四弘誓願を必ず唱える. 東雲寺坐禅会では、毎回般若心経、回向文、略三宝を唱える。いずれにしろ、ヘビーローテーションなので、暗記するにこしたことはない.
わたしは東雲寺の坐禅の前に唱えるスタイルが好きだ. 唱えているだけで心が静まるので、そのあと坐禅にスムーズにはいれる. 念仏はいいなあと思う. なんなら近所に念仏修行ができるお寺があれば通いたいくらい. 坐禅から念仏、曹洞宗から浄土宗になります. 坐禅だけだと、はじめの10分はたいてい心がうろうろしている、般若心経はすばやく意識の活動を鎮火させることができる.
また般若心経の内容は、仏教を知れば知るほどにこれは仏教基礎知識のエッセンス、社会人のITパスポート試験的な知識、全部暗記して当たり前の内容なので、暗記してもお釣りがくるくらい.
回向文略三宝は内容というよりも、それをみんなで唱えることで、わたしが独りでサボりがち問題に対する効果がある. 大きな声で唱えたい.
お寺で墓場の隣で坐禅をすることで自分の死を意識する葬式エクササイズの習慣化
しばしば揶揄される葬式仏教. 本来の仏教からすれば葬式とかは関係ないでしょうという話. いや、ある!
年末あたりから、坐禅中に自分の葬式を思い浮かべるようになった. ここは墓場であり、人間はいつか死ぬ、わたしももうすぐ死ぬ、いやこの坐禅中に死ぬ. 心理療法ACTに葬式エクササイズ5というものがあるが、毎週自分の死を想像し、お墓に入る自分を想像する. これをする.
また、寝る前にバッデーカラッタ・スッタを唱えることもしばしばある. これは大乗仏教ではなく、初期仏教だが、人間はいつか死ぬ、なので今を生きなさいというもの. 死の力を利用して、意識を今に引き戻す.
ティク・ナット・ハンとマインドフルネス - YouTube, 50分すぎあたりから.
仏に身を委ねる感覚を掴みたいので仏を信じるようになった
上の動画ではバッデーカラッタ・スッタのあとに道元禅師の正法現蔵生死の引用、帰家穏坐も紹介している. 釈尊は死の概念を持ち出してマインドフルネスを説明した、道元禅師は仏の概念を持ち出して、マインドフルネスを説明した. 仏に身を預ける感覚. どちらも自分の外部に身をゆだねる感覚.
わたしは1年前には仏とか信じてなかったが、今は信じるというよりも、その概念を掴みたいから信じてみようというスタンス. どうもまだ心の底からそれに依ることができない. 帰家穏坐で安らかな心でいられればいいんだが、なかなか掴めない.
無常が頼りない、虚空のように思う. しばしばお祈り系宗教は羨ましいと思う. 飛行機が墜落してこのあと死ぬときに、呼吸に立ち戻ることで心の安らぎが得られるのだろうか?藁にもすがりたい気分になる. どうすれば虚無が空になり、なにもないところから生きる力が生まれるのか. ここは今後の追求テーマ.
坐禅会では五体投地を毎回するし、最近町田宗保院でこの意味の解説もあった. 自分をぶん投げるニュアンス、おれはここで死ぬんだという気持ちでぶん投げる. わたしは信じるというよりも、この感覚に乗りたいという気分で、そのままでんぐり返しする勢いで、五体投地をするようになった.
坐禅会に参加する目的は自殺の代わりに己を滅尽するため
坐禅会に定期的に通っても、別段ほかの人と仲良くしゃべったりはせずに大抵は挨拶とか程度なので、みんながどんな気持ちで坐禅会に参加しているのかわからない.
わたしが坐禅会に参加するのは、自殺ではなく滅死するため.
毎日毎日、希死念慮にとらわれるのだが、もう何だかそれが日常になると、死にたいという言葉がお腹空いた程度の意味しかもたない. たとえば、天気が悪いと、もうダメだ世界の終わりだうつだ死にたいと思うが、それはなんだか無自覚的な思考のくせや口癖であり、そこに深刻な意味がない. しかし、お腹空いた程度だとしても、しばしばそのことで頭がいっぱいになる.
しかし、坐禅をしているとしばしば自分が消える. 自分の存在が滅尽する. しかも、ただ呼吸に集中して20分くらい坐っているだけだ. こんなことで自分がいなくなるならば、いったいなにを苦しんでいたんだろう. 苦しくてもだからといって死ぬというわけではないんだが、自殺以外の脱出手段があるというのは希望だ. 自分が死ぬのではなく、自分を滅尽すればいいのだ.
また希死念慮はわたしはどちらかというと極端だが、みんな少なからずこの考えはもっている. 長く生きていて、死にたいと思わない人間は少ないのでは?そんなしばしばやってくる希死念慮を乗り越えるための滅尽ルートの発見はわたしにはとても大きい.
名前からは逃れられないので仏道でいこうと思うようになった
坐禅は1年してきたものの、平行して仏教思想をインプットし続けていると、いろいろとわからないところや信じることができないこともある. とくに輪廻と業はまったく信じられなくて困る.
まだ輪廻や業の思想を信じることができず、したがって仏教徒ですとか仏教を信じていますと他人にいうことが単なるファッションである気がする6. わたしが信じるのは輪廻と業の世界観や涅槃ではなく、自殺の代わりの世界の脱出ルートがここにあるのではという期待. 怪しい新興宗教に落っこちずにとりあえず坐禅でよかった. いや気をつけないとまだ危ない、常に妄想にとらわれず批判的思考をわすれずに!
思い起こせば、学生の時から西洋哲学は好きだった. 高校生のときに倫理の教科書を全部暗記した. 大学1年生のときにまずはショウペンハウエルを読み、クラシック音楽にハマり、クラシック音楽の影響でキリスト教の世界観には馴染みがあった. しかし、おととしあたりからようやく東洋思想に目がむくようになり、とくに去年は仏教を学んだ.
しかし、なんだか哲学の書籍をつまみ読みしたりYoutubeをみたりするのも疲れた. 気が向いたときにつまみ食いするのがよくないのだろうか?がっつり何年もかけて哲学を学ぶとなにかが見える?費やす時間が圧倒的に足りない?哲学は好きだか、未だ概要入門程度の知識しかない. しかし、もう歳だ、何だかんだでもう後先長くない. 気づいたら死んでしまう.
この1年で仏教を学び、よしこの先は仏教でいこう!と決意するようになった. いやそんな前向きな決意というよりも、もうこれでいいんじゃないか?もう時間もないしという若干の諦めや投げやり的な決心がある.
一番の理由は、わたしの名前は仏教っぽい名前だ. いろいろな思想をシーズンにあわせてファッションのようにあれこれ変えて楽しむのもいいんだが、名前はファッションのようにコロコロかえることができない. この名前ならもう仏教でいいんじゃないかとも思うようになった.
まとめ
しばらく仏教について思っていたことを文章にしていなかったので、1年をいい区切りとしていろいろと吐き出してみた.
たぶんここに書いたことは、数年後にはまったく別のことを思っているかもしれないが、大事なことは今の考えをスナップショットすることだとおもう. 数年後にどう考えが変わったのかをアップデートしたい.
【筋肉を柔らかくするのに必要な時間と回数】世界No.1ストレッチ研究者による論文解説/ストレッチの効果は性格によって変わる?/リラクゼーションには効果あり?【BODY SKILL SET】 - YouTube ↩︎
坐禅前のストレッチはYoutube動画を漁るといろいろあるけれども、わたしが参考にして実践しているのはこの動画で解説されている2つのストレッチを5分ずつ坐禅の前にする. 「坐禅の坐り方」2020/8/29坐禅会@曹流寺様【午後の部】 - YouTube ↩︎
ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)をはじめる セルフヘルプのためのワークブック - スティーブン・C・ヘイズに書いてあった. ↩︎
仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由 | エヴァン・トンプソン, 自分は1年仏教をいろいろつまみぐいしたけど、やっぱり仏教徒をファッションで名乗ることが後ろめたい. せいぜいわたしは仏教ファン. わたしも仏教徒でない理論武装のためによんでいるのだか、なんかこの書籍難しくて積読中… ↩︎
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