新緑のこどもの日に成瀬の東雲寺坐禅会に初参加!
今日は5/5のこどもの日, 成瀬駅に近い曹洞宗寺, 東雲寺の坐禅会に初参加した感想を書きます!
町田エリア坐禅会は成瀬の東雲寺と町田の宗保院の2つを組み合わせると毎週あることに気づいた
3か月前くらいから, 町田駅近くの宗保院坐禅会に定期的に参加しているのだが, 他にも坐禅会は近場であるのか探したところ, 東雲寺坐禅会を見つけたので参加してみた.
坐禅会は, 毎月第1, 第3日曜日の朝7時-8時に開催.
一方, 隣の駅の町田の宗保院は毎月第2, 第4土曜日, するとなんと2つを組み合わせると毎週坐禅会に参加できる仕組みに気付いてしまったのだった. そして, 今朝の坐禅会で宗保院でもみかけたことがある人をみかけたので声をかけた. 考えることは同じだった. 他にも数人くらい両方参加してる人がいるらしい.
わたしが坐禅に本格的にハマるきっかけとなったトラウマの地
実は, この東雲寺の近所で悲しいことがあり, ここはトラウマの地だった.
わたしは4年くらいウーバーイーツの配達の仕事をしていたのだが, この東雲寺の隣の坂を自転車で登ってあかね台に配達がきっかけで, アカウントが永久停止してしまった. あかね台への配達以後, 明らかに配車がおかしくなり, 自転車なのに10キロを超える配達案件しかこなくなり, その数日後にアカウントが永久停止してしまった. 理由は「自転車車両以外での配達」の疑い.
わたしは, 自転車でしか配達したことがなかったので納得できなくてとてもつらかった. つらくて1週間寝込んでしまった. 結局電話でサポートと話してもアカウントは復活しないので受け入れるしかなかったし詳細は教えてくれなかった. 推測ではお寺からあかね台山頂に向かう道がGoogleマップでルートとして認識されなくて, そこを自転車で登ったら急にお寺から山頂にワープしたようにAIが判定した気がする. または, 町田駅から青葉区に自転車で配達してしまう人がレアなのでこいつは自転車ではないと思われたのかもしれない. ただ, 推測なのでわからない. なにもわからない.
わたしはメンタルヘルスMBSRから瞑想っぽいことに入っていったのだが, 3年間自己流で, 仏教と関係なく瞑想をしてきた. ただ, それでも1日30分以上毎日坐禅っぽいことはしていた. ただ, 仕事を突然失ったことに対して, 自己流の坐禅っぽいことを3年継続しても, 未だこの悲しみになすすべなしだったことに驚いた. それまで, ちょっと自分は瞑想がうまくなってきたのでは?いう慢心もあった.
結局数日間まったく立てない状況が続いたあとに立ち上げるきっかけになったのは, 数年間ずっと継続してきた冷水シャワーだった. 冷水を浴び続けることで, すこし気分が和らいできた. そして, 寝ている状態から座った状態になって, 坐禅っぽいことすること数日でなんとか生活できるようになった.
これをきっかけに, 自己流瞑想じゃなくて, ちゃんと学んでみようと思い, ヴィパッサナー瞑想の書籍を1購入してよみはじめた. 今まで自己流にやっていたことは, かなりサマタ瞑想に近かった. もちろんヴィパッサナー的な知識はあったものの, なにしろ自己流なので, 気づくということがどのようなものか, 手探りでしかなかった.
さらに, 坐禅のチュートリアル動画みたいなものをYoutubeで一通り実践してみると, なるほど一つ一つの作法には合理的だと感じた. これは, 自己流でなんかいろいろ手探りしてたから, 逆に坐禅の作法がおおすごい!とおもったのかもしれない. そして近所の坐禅会に参加してみたくなり, 今に至る.
悲しみを言語を介さすにひたすら観る
東雲寺坐禅会に参加して悲しい気分が溢れてくることは容易に想定できた. もう東雲寺に向かう途中からつらい気分になってきた. 今日のテーマは「悲しみを観る」ことにした. これは禅的でないかもしれないが, 心にはヴィパッサナー瞑想の書籍のことがあったので, それを実践しようと思った.
坐禅をしばらくしていると涙がでてきたのだが, この涙も悲しみの感情も想定通りだ. 坐禅をしばらくしていた状態だから, この涙を落ち着いて観ることができた. 今日はこどもの日、もう新緑の季節であり少し暑く, 暑ければ汗が出るのも当たり前だ. 同様にしてて涙は汗でしかなく, それはこの土地に来ればでる, ただそれだけのこと. そもそも, 涙がでる. ということは不思議ではないだろうか?これはいったいなんなんだろう?ということを観察するのだ. そして, 言葉を介さないこと. 言葉がでてくると, 思考やイメージがこじれるというか, ろくなことにならない. 言葉が動き始める前に悲しみが生まれる瞬間を仕留める.
心が落ちている状態でも, やはりこの土地にきたからか, 悲しみがふわっと心に浮かびそうになる. すると, どうも涙腺が準備をはじめるのか, 眼の周りに違和感が生じる. さらに今日発見したのは, 感情が眼の周り身体反応として現れやすいからこそ, 坐禅では半眼がよいということも理にかなっている. 眼の周りの緊張を解いておいたほうが, より身体反応を抑えやすい.
さらに, どうも頭のうしろのほうがもやっとする感覚もある. それは微かな不快感なのだが, それはそもそも悲しみではないのかもしれない. その不快に対して言語が入ってくるとこじれて悲しみに変わるようなきもする. また, その不快感に伴って, 言語ではなく妄想のような視覚イメージがうごくようなこともある.
とにかく, 観る, 観る, 観る. 言葉をつかわないで気づく. そして, 気づけばその不快感の生成は次第に減退していく, このような名付けがたい一連のプロセスをとにかく, 観る, 観る, 観る… 言葉をつかわないで, 観る.
悲しみへの気づきを大切にしてゴールデンウィークを過ごす
けっこうゴールデンウィークがつらいのは, 今まで毎年のように, ゴールデンウィークは配達をしていたはずだった. 今年は配達をしていない. 街にはフードデリバリー配達員で溢れていて, その姿をみるたびにわたしは悲しみに襲われてしまう. ただ, それも気づきが苦しみを和らげる. 坐禅中ならば悲しみに冷静に対応できるのだが, 日常生活がやはり手強い. すぐに飲み込まれてしまう. 悲しみへの気づきを大切にしながらゴールデンウィークを過ごす.
ただ, 東雲寺のそばの坂がきっかけで, 坐禅をより調べだし, 実際にこの土地に今日きて座っている, これはなんだか不思議なことではないだろうか?不思議な縁だ.
ただ, そんな不思議なストーリーすらも, 気づいて手放したい. わたしはすぐにそんなファンタジーを妄想してしまう. これがよいのかどうかすらわからない. ただ, そんなファンタジーが悪く作用することがけっこう日常生活でおおいので困る. そこに素敵な物語はなく, たんなるウーバーのソフトウェアの振る舞いでしかない. そんな妄想すら, 観る.
参考
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