坐禅で集中にこだわりすぎると8炷目にもう集中はいいやという転換がおこった
瀧見観音堂の1日接心に参加してきた感想です. 今回は2回目で8炷すわりました.
Dandieat | 瀧見観音堂接心に参加して長時間坐禅に初挑戦した!
朝たくさん食べると坐禅に集中できない?
先日に実家に泊まったので、朝7時から参戦. 朝7時からの坐禅会ならば毎週通っている近所の坐禅会と同じなので慣れている… と思いきや、はじめの1炷目がいつもどおりの感じに座れなかった. 2炷目でようやく取り戻した感じ.
分析するに、おそらく朝にごはんとかみそ汁とか、そこそこ食べてきてしまったからだと思う. 普段は空腹状態で坐禅会に参加する. いつもと違うのはお腹の空き具合くらいだ. とはいえ、果たして朝を食べないで夕方まで持つのかは不安だ. いつもは1日2食で15時ごろからお弁当を食べるのでいけるかもしれない. 次回の実験.
経験的に、空腹だと坐禅がしやすい. また、今日はとても寒かった. 飢えと寒さは集中力が高まる気がして、坐禅に入りやすい.
パターン、パターン、パターンで煩悩の波を乗りこなす
3炷目からの3炷はとても坐禅が深まった. 前回は10時から始まって結局はじめはそわそわしていたが、なんと今日は10時からトップスピードで?坐りだせた.
だんだん接心への参加を繰り替えうちに、普段の坐禅会とは違う接心の坐禅戦略みたいなものもできてきた. 毎回思うのは心の定まり具合には波がある. 妄想にとらわれて、それが晴れた!と思ったらまた曇る. 晴れたり曇ったりを繰り返す. しかし、そういう波を乗り越えれば乗り越えるほど、次はより深く入る気がする. そして、だいたい中盤になってくると、心が惑いだすトリガーが決まっている.
- 空腹
- 寒さ
- 足の痛み
- 眠気
ようは、こいつらが代わる代わるやってきて、それに対する心のパターンも大体決まっているのだ. なのでパターン分類してているうちに妄想は静まる. 僧堂でおこる心の反応パターンは限られている. パターン、パターン、パターン.
また、中盤の気づきでは、独り言をいっている自分の声がどんどん小さくなっていく感覚があった. 普段は、独り言を言っている主体が頭蓋骨の中に収まっているのだが、その声をきいているわたしが頭蓋骨から1メートルくらい後ろにいるような感覚だ.
また、気づきのスピードも素早い. 妄想にとらわれたところで5秒以内に気づきが発動すれば、もうそれは思考を滅したと同じだ. ただ、気づきばっかりは自分の努力ではどうにもならない. 毎回、気づきとはなんなんだと思う.
足が爆発しかけたので逆半跏趺坐で乗り切った
普段の坐禅会と違う接心戦略の一番の課題は、身体の痛み、とくに足の痛み問題. 腕とか腰もまあまあ疲れるが、なんとかなる. 足がどうにもならない. ずっと結跏趺坐を貫いていたら6炷目で足が爆発しそうになった. 2炷くらいならまったく問題ないが、やはり長時間がまだキツい.
7炷目で普段やったことがない逆の足のくみ方をしたらとたんに楽になった. 痛くなったら無理しないことを学んだ. また、はじめから交互に足を組み替えたらずっと結跏趺坐でもいけそうに思った. 半跏趺坐の問題点は、足を圧迫しているのでそのあとの経行に影響が出ること.
集中しようとこだわり続けると、もう集中はいいやとおもった
ここ1ヶ月はずっとそうだが、とにかくサマタ瞑想ばっかりを意識して普段は坐禅していた. そして、今回の接心の意気込みも、今までで一番深いところまでいってやる!というものだった.
しかし、たしかに接心は深いところまでいける. そしてそれは波に乗ってどんどん深くまでいける. ただ、そうはいっても神秘体験のような集中というよりは、いつもの集中+アルファ的なちょっとした進歩であるが、それに対してそこまで獲得した喜びがだんだんなくなってきた. すると、もう今日は十分集中したので、もう集中にこだわらなくてもいいやという気分になった.
まずサマタから入るんだけど、サマタに取り組みすぎると、なんかサマタに飽きてしまう. すると、集中しようという心の動きを今度はとらえようとする. 集中しようという心は、鼻に当たる空気や胸のふくらみを制御しようとする筋肉の感覚に誘発されることが多いので、それに気づいたら、集中しようとした!と気づく。
これは、今日の接心の一番の収穫かもしれない. 集中にこだわり続けると満足して集中はもういいやと思う. しかし、集中を手放すとさらに集中するという謎の仕組み. 今日はここまで.
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