念彼観音力よりもまずは腕力(町田宗保院坐禅会感想)

早起きできて坐禅会場に一番乗りを果たす

朝が弱めのわたしはいつもは遅刻ギリギリで坐禅会に参加するのだが, 今日は珍しく早起きできて6:30すぎには到着した. 顔見知りのいつものおばさんもびっくりしたように挨拶をした. ただ, 30分以上前になるとそもそも誰もいないかもしれない. 30分くらい前がいい.

控室にはもう数名の人がいたのだが, わたしは荷物をおいて坐禅会場の本堂にいったら誰もいなくてまさかの一番乗りだった. 誰もいなくて不安になりいったん引き返して「もう入っても良いのですよね?」と確認までした.

毎回小田急相模原から全速力で自転車をかっ飛ばしてくると, けっこう疲れてしまってギリギリに到着すると坐禅ではなく休憩になってしまう. 呼吸が乱れた状態での坐禅になるのはとてもイマイチ.

ギリギリだと調身の時間がとれないことも問題. 坐禅は自宅でも毎日しているものの坐禅会に参加するときはなるべく曹洞宗のフォーマットに忠実にやろうとして, 普段よりもより基礎を確認しながら, それこそ初心でひとつひとつの動作を確認する. いつもよりも柔軟体操を事前にしたりもしたい. そういう時間が余裕があれば取ることができた, 素晴らしい.

恐怖によって思考が起動するのに気づき心意識の運転を停めて自転車を運転をする

坐禅会がはじまる前の時間で, 普勧坐禅儀を読んでいた.

心意識の運転を停め念想観の測量を止めて作仏を図ること莫れ

この言葉を昨日, たまたま別のYoutube動画でもきいて気になっていたので, 出典が普勧坐禅儀にあったことを知って嬉しくなった. 今日の坐禅中もこの言葉を意識しながら, 従って愚かながら心意識の運転がそこそこ暴走しながら行った.

わたしは自転車の運転で気づきを練習するのだが, この「運転」というのが気になった. そもそも鎌倉時代に運転という言葉がある事にまず驚いている. drivingという意味ではなく, 流れとか移り変わりのようなニュアンスのようだ(ref ChatGPT).

最近気づいたのは, 自転車を運転しているときに恐怖を感じると, そのあと思考が生じることがわかった. これに注目しながら, なるべく思考を介さずに運転しながらどんなときに考え事をするのか観察していると, 危ないと感じるようなあとに言葉がでてくる法則があり, これが面白いようにそのパターンにハマるのだ.

運転をしてイライラしたとしても, そのイライラは, たんに恐怖という感情があり, それはもっと分解すれば心拍数が高まった状態であり, もっといえばノルアドレナリンやアドレナリンである. なのにあとから言葉で「なんなんだよあのじじいの運転は!」とイライラする. これはたんにわたしは怖い目にあったという恐怖があるのだ.

心意識の運転を停めて自転車を運転をする, こんなことを考えていた. 心意識が運転しすぎて坐禅にならないじゃないか!

念彼観音力よりもまずは腕力

朝は前半が坐禅, 後半がお勤めの時間が取られる. 般若心経は毎回読むのだが, 今日はいわゆる「観音経」だった. 数ヶ月前に参加したときに, あまり曹洞宗に対する知識がなかったときに, なぜ観音経?只管打坐ならなぜお経なのか?みたいな疑問から観音経を読む理由について調べたことがあった.

臨済宗横田南嶺さんのYoutube解説だと, 鎌倉時代の元寇のときに, 観音経を読み上げて戦ってその伝統を今にも伝えるているという説が面白かった1. 蒙古襲来なんて今で言えば宇宙からのエイリアン襲来のような怖さがあり, 観音力にすがりたくなる気持ちもわかる. 曹洞宗も同じだろうか?正法眼蔵にも観音という巻があるようだ.

しかし, 異世界からの侵略者を念彼観音力で撃退したという都市伝説を信じるならば, 私の祖先なのか親戚なのかわからないが「菊池武房」という元寇において一番乗りで戦場に駆けつけたという都市伝説もある.2 蒙古襲来で実際に刀で戦ったのだった. 念力や観音力で海がひっくり返ったかもしれないが, 実際には観音力のような不思議な力ではなく, 腕力で蒙古襲来を防いだのだった.

最近, 小田急相模原と町田を往復する途中にある公園で懸垂をすることが習慣になってきた. 今日も坐禅会に参加する前に懸垂をして筋トレをしてきた. 調身調息調心の順番でいけば, まずは運動があり, そのあと坐禅. わたしは僧侶ではないし, 2025年07月に空から恐怖のエイリアンが来るという都市伝説を信じて, 念彼観音力よりもまずは腕力を鍛えたいと思った.

今日の禅語: 青山常運歩

今日の禅語は「青山常運歩」.

山が歩いているみたいな意味だが解説がないと意味がわからない. ようはいいかえると不動心. しかしこの不動というのが, どっしりしつつも流動的に変化を受け入れて対応するようなニュアンス.

そこから派生して, 整えるではなく調えるという話につながり, この感覚は坐禅でなんとなく感じるのでより腑に落ちた.

  • 整える:物事を秩序立ててきちんとした状態にすること
  • 調える:全体のバランスやハーモニーを意識して調整すること.

坐禅は調える.


  1. 第356回「禅宗と観音経」2021/12/28【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師 - YouTube ↩︎

  2. 【蒙古襲来】一番乗りは竹崎季長ではなかった? - ほのぼの日本史 ↩︎