ロマン・ロランはベートーヴェンとヴィヴェーカナンダをどうつなげたのか?

3ヶ月前、たまたま読書会に参加したのだが、そこで刺激を受けたため、大学生のときに読んだ、魅せられたる魂を読み始めた. しかし、2ヶ月経っても100pしかよめなかったので、方向転換をし、ヴィウェーカナンダの伝記を読んだ1.

そもそもわたしはなぜロマン・ロランを読み始めたか思い出してみる.

高校倫理の教科書で、ベートーヴェンのDurch Leiden Freude を理解したかった. ベートーヴェン第九をききはじめた、クラシック音楽にハマった. 大学1年生からロマン・ロランのベートーヴェンの生涯を読み、ジャン・クリストフ、魅せられたる魂を読んだ.

大学2年生から学割1000円クラシックコンサート通いをしまくった. わたしは大学1年生のときから精神科に通っていたが、精神科にお金を払うくらいならば交響曲のフィナーレにおける感動によってうつ病を治療しようという信仰に支えられて通った. とりわけ、マーラー、ブルックナー、そしてワーグナー、ドイツの後期ロマン派音楽が好きだった. そして、その感動体験には、ロマンロランの描く小説体験があった.

しかし、大学を卒業すると次第にクラシック音楽への興味が薄れてコンサートにもいかなくなった. クラシック音楽の趣味はすっかり過去のものになった. そして、数年前から仏教に興味をもち、日々のプラクティスは坐禅なので、禅思想にも興味を持つ. 禅は古典的マインドフルネスとはすこし違う、非二元マインドフルネスであり、それはシャンカラのアドヴァイタ・ヴェーダーンタに近いということも調べた.

ここで出会ったのがヴィヴェーカナンダやウパニシャッドであった. そして、ウパニシャッドから影響を受けたのがショーペンハウエルであり、大学一年生のときにはじめて読んだ哲学書が意志と表象としての世界だった. いろいろなものがつながりすぎる.

ずっとロマン・ロランの描く世界観に対する憧れがある一方で、いまいち賦に落ちない感覚もあった.

それは淋しい空地において、暗い闘いを行う烈々たる行動のたいまつである.

失敗も勝利も問題ではない、行動だ!

行動し、戦闘することが、虚無に対する唯一の肯定なのだ.

わたしがずっと気になっているのは、ベートーヴェン的な西洋の精神と、ヴィヴェーカナンダ的な東洋の精神がどう折り合いがつくのかということ. これはどうやら、ロマン・ロランはキリスト神秘主義のようであり、それを確かめることが読書の目的だったが、間違いないようだった. ロマン・ロランの用語でいえば、それは大洋感情だった.

わたしが今さらになって再発見したのも、クラシック音楽、とりわけベートーヴェン以後のロマン派音楽は、キリスト強的世界観ではなく、キリスト教が信じられなくなったあとの個人の信仰としての神秘主義ということだった. どうもクラシック音楽=教会と相性がいい=キリスト教!のようなレッテルを貼っていた.

しかし、そうはいっても、もう21世紀だ. 書籍を読むといかにも近代的な要素を感じるが(ひとつの、普遍の、絶対の、偉大なる精神、これらはクラシック音楽でもよく登場する. )、わたしはわたしでなんだか若干古くさいような印象を受ける. これらは大きな物語を信じられないポストモダンの虚無感か? いや、違和感は大事なので、それをもとに、今の世界を覆う価値観、そしてそれに縛られたわたしの価値観とは何だろうか?と考えてみる.

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