気づきを逆回転させて注意散漫に留まり続けるマインドレスネス瞑想を試した

町田宗保院坐禅会の感想.

坐禅会がはじまって、すぐに和尚さんが「自分のなかに閉じず、心を開けっ放しにしてお座りください」のようなことを言った(台詞自体は記憶が不正確).

これがきっかけで、本日の坐禅はいつもと違う注意をした. それは、「能動的な注意散漫」だ.

気づきを逆回転して気づき続けない

普通、マインドフルネスというと、気づき続けるというのが定義として有名だ.1 今日の取り組みの奇妙なことは、この注意機能、気づき続けるということを逆回転させみた. 能動的に気を逸らしつづける.

しかし、はじめてすぐに気づくことは、気づきつづけないということが不可能ということだ!注意を散漫にしようとしても、すぐになにかの対象に注意が向かう. なにかに注意しないという状態ははたして可能なのか?というほどに、自分の意識はどんなに注意を逸らしつづけようとしても、なにかに気づいてしまう. 注意し続けるということは難しい、しかし同様にして、注意散漫に止まり続けるということも難しい.

さらにおもしろいことに、注意を逸らしつづけるということが、そもそも気づきになっているということ. 気づかなければそれから離れることができない. 結局気づかないようにしつつ、気づき続けている? どんなに頑張って注意しない状態をつくろうとしても、刺激に対して無意識レベルで反応してしまう. 集中することが受動的であり、集中に後から気づいてすぐに離れることが能動的.

だが、この注意を逸らしつづける状態は、坐禅のときはなんとかできたのだが、経行は難しすぎてできなかった. ゆっくり歩くということが動作として難しく、したがってそれなりの注意が必要だ. 注意散漫状態でスローモーションで歩こうとしても、バランスを崩して転びそうになった. しかし、これもおもしろい. 注意散漫で無自覚に歩くということはできる. しかし難しい動作を注意散漫ではできない.

気づきが先か、気を逸らすのが先か問題

わたしは坐禅会のあと、この感覚は捨/ウペッカーに近いような気がした. 離れるということが、捨てる感覚に近い. 思考があれば捨てる、記憶があれば捨てる、捨てる、捨てる、それを継続し続ける. ただ生成AI的には、特定の煩悩や執着を手放し続けることであり、対象はすべてではないという.

この能動的に意識を逸らしつづけるということは、禅の文脈ではちょっと違うと思う. 禅は「あるがまま」なので、それは作為的な計らいだ. 一方で「放てば手に満てり」という道元禅師の言葉もある.

とてもおもしろいのは、気づき続けることの逆回転をしているはずなのに、それが結局気づき続けるということになっているということだ. これは、いわゆる「鶏が先か、卵が先か」問題. 気づきが先なのか、いや気づかないのが先なのか?

だがしかし、サマタ/ヴィパッサナーの文脈での、集中がそれることに気づきいて集中に戻すのか、気づきつづけるから結果として集中するかのような関係とはちょっと違うように思う. 瞑想の対象を1点に定めないので.

ケイオスマジック瞑想

最後に、このような注意散漫瞑想?が自分の発想とは思えず、過去にこのような瞑想があったのかを生成AIに質問してみたのだが、3回くらい「申し訳ありません、私の検索でも能動的に注意を散らし続けることを主目的とした瞑想法は見つかりませんでした。」と言われた.

それでもドSに問い詰めたところ

ありました!カオス魔術では「ecstatic gnosis」という手法があり、これは「sensory overload」(感覚過負荷)、過呼吸、踊り、太鼓、詠唱などを通じて意識的に心を散らす方法 The Chaos Magicianがあります。

なぬ?今日のわたしは黒魔術瞑想だったのか!2


  1. マインドフルネスとは、意図的に、瞬間瞬間の体験に対して、評価判断することなく、注意を向けることによって得られる気づき - ジョン・カバットジン ↩︎

  2. ケイオスマジック - Wikipedia ↩︎