音に対して怒りで反応しないということを日々実践すれば其の瞬間から坐禅会がはじまる

朝の東雲寺坐禅会に寝坊して参加できなかった. 目が醒めたら6:30だった.

アパートの隣の部屋の住人は朝7時前から家事のお祭り騒ぎを始めるので, 今日もうるさかった. 洗濯機で地震発生!寝坊にふてくされてふとんで寝ているのもつらい. キッチンの金物系の音はノイズキャンセリングヘッドホンで防げなくて聴覚を通じて物理的に頭をガンガン殴られているような感覚だ. しかたない, いつものことだ. 隣の人が悪いわけではなくボロアパートはボロいので騒音がひどい. 隣の人にイライラしても仕方がない.

それにしても聴覚過敏なのか, 音のストレスが日々ひどい. 家では絶えずイライラするのだが, 外にでても音を止めることはできない. 車の音もエアコンの音もイライラする. 話し声もイライラする. かといって, 音に対してイライラするのは, 社会で生きていくにはほとんどの場合無駄な抵抗なのだ. 他人と話さないことも不可能だ. イライラしても仕方ない. 車のエンジン音に対してイライラしたところで本当に無駄な抵抗だし, 夏に涼しいクーラーの部屋で過ごしながらその音に怒り狂うのは滑稽だ.

つらいのは, 音に対してイライラしてしまっても仕方ないとは心底思っているにも関わらず, 身体が音に対して反応してしまうことだ. 聴覚だけならいいけれども, 聴覚刺激に対してしばしば触覚刺激が伴うような感覚がある. 固い音は頭を音でガンガン殴られているような感覚が強い.

仏教を学んだり坐禅をして得たひとつの救いは, 音に対する怒りは気づけば滅することができるということだ. 日々坐禅をする大きな目的のひとつは, 音のストレスがひどく, したがって音に対して怒りで反応しないようにしたいからだ. 社会で生きていく限り, 音の苦しみから逃げることができない. じゃあどうすればいいのかといえば, 自分と音に対する関係性を変化させるしかないのだ.

たしかに今日は坐禅会に参加できなかった. しかし向き合うべきは, 今この瞬間にかかえている鬱々とした気分や音のストレスから派生した反芻思考だ. 日々の生活の中で, 日々の音とわたしの関係において, 坐禅のようなことはできる. 音を観察して怒りで反応しない. 怒りとコツコツ向き合って一つずつ怒りの炎を消していく. 音を滅することはできないが音に対する怒りは滅することができる道は示されている.

しかし一方で, どうしても矛盾を感じるのは, 坐禅をして音を観察すればするほど, 微細な感覚に気づくようになり, その結果感受性が強化されて聴覚過敏が悪化する感覚がある. これは大きな問題だと思う. なんだこゃ, どうなってるんだ…